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保健室をトレーナールームに
トレーナーを志す高校生への道しるべとして
阿部大樹
サポートをしたいという気持ちから 僕は高校3年間、野球部にトレーナーとして所属し活動してきました。小さい頃から野球が好きで、小・中学校では野球部に選手として所属していましたが、自分の野球選手としての能力には限界を感じていましたし、ケガもよくしていました。それでも大学までずっとスポーツをやり続けるというのも良いと思っていました。ただ僕自身はサポートすることが嫌いではなかったので、自分が選手としてやっていくということには見切りをつけて、高校ではマネ−ジャーとして野球部に関わろうと決めていました。地元では強豪とされる都立富士森高校野球部(以下、富士森)に入部しました。
トレーナーの仕事を意識するきっかけ トレーナーという仕事を意識するようになったきっかけは、マネージャーとして入部してすぐ、3年生のレギュラー捕手が練習試合中に利き腕の肩を脱臼したことでした。最後の夏の大会まであと2カ月ぐらいしかなく、ケガをした選手は放っておかれていました。なんとかしたいと本を探し、元ニューヨークメッツでコンディショニングコーチだった立花龍司さんの本と出会い、ものすごく感激し、同時にトレーナーという職業を知りました。今思うと生半可な知識でとても恐いことをしていましたが、その時は自分なりに精一杯メニューを考えてリハビリを手伝っていました。完全回復とまではいきませんでしたが、この夏富士森にとって最後となった試合に、9回代打で初めて出場し、センター前ヒットを打ちました。今まで感じたことのないうれしさで泣きました。野球ができない苦しさと戦いながら、最後の夏の大会に出場することを目標に、一生懸命リハビリしていたのを知っていたので。このうれしさが忘れられず、トレーナーとして所属したいと監督に申し出て、この日から高校生トレーナーとしての生活が始まりました。
多くの師との出会い
しかし、前例にない高校生トレーナーということもあり、最初選手たちの視線は「あいつに何ができるんだ」と冷ややかでした。また、トレーナーとして所属したものの、実際はわからないことだらけでした。本を読んだり、片っ端から講習会を受けていましたが、一人でやることには限界を感じていました。そこで師を求めて、選手がよく通っていた近所の上工堂整骨院(以下、上工堂)の大島先生に弟子入りをしました。その時は富士森の多くの選手が通っていたというだけの理由で選んだ上工堂でしたが、偶然にも大島先生はプロのトレーナーとして現場で働かれている方でした。また、加瀬先生の下でキネシオテープの普及に努めていたこともあり、キネシオテープの必要性を聞かされていました。週1回の夜と富士森の選手が治療を受ける際に一緒に整骨院に行き、手伝いをしながら他にもたくさんのことを教えていただきました。選手のケガは、上工堂で治療と、リハビリメニューをお願いし、そのメニューを学校で僕が見る、その繰り返しで行なっていました。学校では、体育の先生、保健室の先生、監督、マネージャー等のパイプ役をし、特に体育と保健室の先生にはケガやトレーニングについて、学校での僕のアドバイザーとして多くの助言をしていただきました。
選手の役に立ちたくてキネシオテープなど様々な講習会にも参加しました。選手の自己管理の助けになればと思い、栄養に関する情報、筋力アップのメニューなどにもチャレンジしました。2年生ぐらいになると自分の居場所が確立され、選手から相談を受けたり、ケガ人が出ると大声で僕の名前を呼んでくれるようになりました。3年生になると自分の幅を広げたいと思い、陸上部にもトレーナーとして所属し、野球部が休みの日だけお手伝いさせてもらっていました。この頃新聞に記事が掲載されたことで、個人でテープを巻いてほしいとか、ケガをみてほしいと話しに来る他の部活の人もいました。野球部と同様に、医療機関に連れていき、そこで受けた指導をもとにリハビリを手伝わせていただきました。富士森高校だけでなく、他校の野球部でトレーニングの話をさせていただいたり、母校の中学校でトレーナーの仕事について話す機会をいただいたりすることもありました。3年間勉強会や施設見学のため夜行バスに乗って遠くにも足をのばしたり、トレーナーに興味を持つきっかけとなった立花龍司さんに、無理を言って直接お会いしたこともありました。本当に忙しかったですが、充実した高校生活でした。
高校生トレーナーとして得たもの
高校生トレーナーとして活動してみて、その必要性を改めて実感しました。選手は自分のケガに無関心ではないのですが、相談する相手がいません。また、日本の高校では指導者も選手も正しいトレーニングの考え方は浸透していなく、そのためにケガが増え、スポーツ寿命が短くなったりしています。僕が一番気にしているのは、好きでやっていたスポーツがつまらなくなったり嫌いになる人が出てくることです。正しいトレーニングの考え方がもっともっと普及して、当たり前になってほしいと思います。
トレーナーとしての技術がそれほど身についたわけではありませんでしたが、高校生活3年間で、「トレーナーとは?」という勉強はできました。将来僕は中学・高校でトレーナーの仕事をしたいと考えています。プロの選手は恵まれた環境の中でスポーツができますが、日本では最もスポーツ人口の多い中学・高校の部活でケガを専門に見る人がいません。そもそも運動部にケガを見る人がいないことは恐ろしいことです。好きなスポーツを長く続けられるように、ケガの予防や、ケガをしてもちゃんと復帰できる環境をつくっていきたいです。
将来の目標―保健室をトレーナールームに
このようなことをふまえて進路を考えた結果、体育の教員も考えましたが、学校の中で多くケガに関わりたいと思い、保健室の先生(以下、養護教諭)を目指そうと決めました。そして保健室をもっと活性化させ、トレーナールーム化できるのではないかと考えています。部活中にも保健室を開放し、学校でのケガは保健室でみるということが当たり前の形になれば良いのではないでしょうか。外部からトレーナーを雇うのと違って、養護教諭なので学校全体の先生とも交流を持ちやすく、理解を得られればうまくいくと思います。これが実現できれば、すべての学校にトレーナーがいるのと同じことになり、体育の授業や、部活での怪我が減ると思います。また、トレーナー側のメリットとしても、給与も安定しますし、あくまで教諭なのでクビを切られることもありません。そしてなにより、今までにやっている学校がないため、トレーナーの需要が増えると思います。ただ僕自身男なので、通常の保健室業務を考えると女子生徒にとっては保健室が使いづらいということは確かです。ですから私立の男子校もしくは養護教諭を2人置いてくれる学校でないとこの話は実現しません。しかし、これまで女性の養護教諭ばかりでしたが、看護婦の名称が看護師に変わったように男性の養護教諭の必要性もあると思います。男性だって女性に言いづらいことはあります。1番の理想はすべての学校に男性と女性の養護教諭が1人ずつ置かれることです。
高校にトレーナー部を―次世代の育成
僕には実現させたい夢がもう一つあります。それは高校にトレーナー部を作ることです。高校の時、ケガのため選手生命を絶った人や、トレーナーをやりたいという生徒に何人か出会いました。保健室を起点にして各部に高校生トレーナーを送り、ケガ人がでれば保健室に連れていく。そしてリハビリメニューを作成し、部活に戻る。こんな形がとれたら良いと思います。また、高校生の段階でトレーナーとしてやる仕事は心肺蘇生(CPR)と応急処置程度でも良いと思います。保健室とつながっている人が部活にいる、これだけでも十分な戦力です。それよりも、この3年間で多くの情報を手に入れて、トレーナーとはなんだ、日本でのトレーナー事情はどうなっているのか、どんなトレーナーに自分はなりたい、自分は向いているのか、仕事内容は、など自分のトレーナーのイメージを明確にできれば良いのではないでしょうか。専門的なことは大学や上に行ってから勉強すれば良いと思います。それによって大学ではトレーナーの勉強をしない人も出てくるだろうし、高校卒業後渡米したり、体育大に行く人もいると思います。保健室がそういう場になって欲しいと考えています。
保健室の先生になるには2通りの道があります。1つは養護教諭課程のある大学に行くか、看護師になってから養護教諭課程のある学校に1年行く方法があります。僕は後者を選びました。看護師の資格は医療資格だし、医師の指示があれば現場で注射も打てます。医療を深く追求できると思い、今看護学校に通っています。トレーニング分野の勉強はありませんが、自分の夢には必要な知識なので、毎日を一生懸命過ごしています。そして看護学校を卒業し、看護師資格取得後に、学士、養護教諭の資格とトレーニング分野の勉強をすることを目的に、養護教諭の資格を取得できる体育大学を受験するつもりでいます。入学した際には、現場を探し、学生トレーナーとして勉強していこうと考えています。
最後に、僕がこれからやろうとしていることには先駆者がいません。これからも試行錯誤していく形になると思います。どんな意見でもかまいません。思ったことを素直に教えて下さい。いろいろな方からの意見がほしいです。メールをお待ちしています。
阿部大樹(あべ だいき)
2003年4月14日
2003年11月29日 改訂
2004年3月9日 改訂
©2003 Abe Daiki